個人的な記事に貼りつけた楽曲ですが、最近のお気に入りであり、かつ歌詞に関する面白い考察を見つけたので書いてみたくなりました。
といいつつ、若干酔いどれ日記なので、「ん?」と思うところがあったとしてもご愛嬌という事で(^_^;
三好達治作詞 木下牧子作曲「鴎」
まずは、何はともあれ楽曲を聞いてみてください。とても澄んだ、美しい楽曲だと思います。
動画
混声四部合唱版の音源を見つけたので貼ってみます。
混声版は楽曲の完成度が一番たかいと思います。
他にも女声版、男性版もあります。
女声版
とても澄んだ響きです。女声のアカペラでも、最低声がちゃんとバスの役割を持っているとやっぱり安定感がありますね。音域だけでなく声部書法に寄るところが大きいのだなと実感する例です。
男声版
男声版は安定感はやっぱり抜群ですね。低音が充実しているのは男声を含む合唱の特権であると思います。また、男声の最高声のテノールパートは結構高いところまで要求されるのですよね。あんまり、音の高低差のある旋律だと、もう少し高いところまで使えないと難しいかもですが、なだらかなものについては十分、というか、むしろ良いかもしれません。
さて、曲について述べてきましたが、今回はこの曲の歌詞について面白い見解を見つけたのでそれについて考えてみたいと思います。
鴎の歌詞
面白い解釈について見解を述べる前に、どんな歌詞なのか?気になりますよね。
三好達治さんの著作権保護期間は終了しているため、歌詞を載せてみます。
「鴎」(三好達治)
ついに自由は彼らのものだ彼ら空で恋をして
雲を彼らの臥所とするついに自由は彼らのものだ
太陽を東の壁にかけ
海が夜明けの食堂だついに自由は彼らのものだ
ついに自由は彼らのものだ
彼ら自身が彼らの故郷
彼ら自身が彼らの墳墓ついに自由は彼らのものだ
太陽を西の窓にかけ
海が日暮れの舞踏室だついに自由は彼らのものだ
ついに自由は彼らのものだ
ひとつの星を住みかとし
ひとつの言葉で事足りるついに自由は彼らのものだ
朝焼けを明日の歌とし
夕焼けを夕べの歌とすついに自由は彼らのものだ
鴎の比喩は学徒出陣前の学生か、否か…ツイッタ―上の解釈
ツイッタ―のモーメントという機能でまとめられたものを見つけましたので、転載してみます。
こちら、大阪府にある旭区民合唱団リリオさんの発行している「リリオだより」にて掲載された記事について見解を述べたもののようです。
この「鴎」の歌詞に関して、現存する資料(作者の言葉だったり、裏付ける手紙だったり)から読み取れる事実については、このTwitterモーメントで述べられていることが「真」(鴎が学徒出陣前の学生を指していると断定することはできない)なんであろうと思います。
でも、Twitterモーメントの最後の方でも触れられていますが、楽曲の解釈の1つとしてこの「リリオだより」に載せられた仮説はとても興味深く、また実際の演奏の助けたりうる可能性の高いものだなとも思いました。1つの解釈を共有することはリスクをも含んでいるようにも思いますが、それを考慮に入れても有益である可能性もまた高いと思いました。
また、彼ら(=鴎)を学徒出陣前の学生と置き換えてこの歌詞を読んでみると、そのことを指しているのではないか!?と思うくらい、しっくりくるのも事実であります。
実際に、対象を「彼ら」としていることから、「彼ら」の指すものは三好達治を含む集団(敗戦後に生き残った人々)ではないという解釈は可能であると思います。ただし、客観視した表現を用いつつ、自分をも対象にして「彼ら」と呼ぶ、そういう解釈も可能だと思います。
ただ、このモーメントのように、「彼ら」を敗戦後に生き残った人々と解釈することもまた可能だと思います。歌詞にも何ら矛盾は生じません。
真実か否かは置いておいて、演奏に説得力を持たせるものとは
なにがいいたかったんだろう???
自分でもよくわからなくなってきてしまいました…
えーと、多分言いたかったことは2つでしょうか。
- 懐の大きい作品は多面的な解釈ができるものなんだなぁ。
- それが嘘か真かは別として、実際と著しくかい離するものでない限りにおいては、ある特定のイメージや解釈を共有することで得られる演奏の感動は大きいと考えられる。
です。
1.について、もちろん、具体的でイメージが思い浮かぶようなものも好きなんです。ただ、妄想力というか空想力というか、をより掻き立てられるもの…より自由なもの、興味深く裏を読んだり行間を読みたくなるのは、こういった作品なのかなと。
2.について、これは主に演奏する側に対しての事です。各々異なったものであったとしてもイメージに溢れていたり、または明確な意図を持った解釈がなされていたりする場合においては、むしろ、その個性が、違いが、魅力的な演奏を導くと思うのです。
ただ、各々がなんとなく漠然と演奏している場合もあって、ことにアマチュアにおいてはそうなりがちだと思います。なんとなく、漠然と演奏しているという状態においては、訴えかけるものは弱いと思うのです。だって、そこには思いや意思と言ったものが欠けているから。
そういった場合に、(危険性を孕むとはいえ)一つの解釈を提示し、それを共有することができれば受動的であった、いや、むしろ「無」であった演奏がたちまち魅力で気持ちのこもったものになるのではないかな。
と、この歌詞と歌を聞いて思ったのでした。
そう思うと同時に、このモーメントでコメントをしている方のように、「この解釈は妥当なのか?」と疑問に思う気持ちもまた大切なのではないかなと思いました。
鵜呑みにするのではなくてね。
作者がどう思っていたかは、史実からは読み取れないけれども、「こういう解釈は可能だよね。だからこうしたい」といった説明が、作品へ対してのもしかしたら誤った先入観を与えることなく、かつ、説得力があるやりかたなのかな…と。
そんなことを思った、晩酌してる週末の夜なり。
おやすみなさい。