昨日のことです。
館山市の市民音楽祭に出演して参りました。伴奏三本に合唱一本。
歌は最近前よりは少し自信をもって歌えるようになりました。まだまだ、見習いたい人はたくさんいるけれども、楽しく演奏できるようになったのは大進歩。
声を出すって気持ちがいい。合法的に大声を出せて、しかもそれが美しいハーモニーを作ると来たもんだ。
素晴らしい。
歌の持つ力。
最近、それを強く感じます。音楽と言葉の融合。音楽経験は器楽ばかりだった自分にとって、歌の世界はとても新鮮です。
柔軟性の高い楽器である声。人それぞれ異なった音色を持ち、その人の個性が存分に表れる楽器でありながら、集団との融和性も非常に高いという。
よく、弦楽器の音が声に近いなんて言われたりするのですが、それを聞いても「えっどこが?」なんて思っていた口でありました。全然似てないじゃないか…と。しかし、今ここへきて、楽器同士の親和性の高さ、ユニゾンの美しさに、声と弦楽器の類似点を見出しております。
そして、言葉の持つ力。
言葉がつくことによってイメージが膨らみやすくなります。感情移入もしやすくなります。指導をする上において、音楽の構造の点のみならず言葉からも説得できるようになります。
これは、演奏者のみならず、聴衆にも伝わります。
言葉によってイメージが掻き立てられ、演奏に共感しやすくなります。
ライブというのは、その空間に同時に居るものにしか味わえないものですよね。その時の演奏者とその観客。録音によって、音楽そのものはある程度以上のクオリティで再現し、鑑賞することはできるようになりましたが、その場の空気感を味わう方法は現時点ではありません。
言葉というのはもろ刃の剣でもあると思っておりまして、先入観を与えるリスクは無視できないと思います。
しかし、それを差し引いても、言葉は表現の上でとても力のあるツールだあることに変わりはありません。
歌。
人類が手にいれた素晴らしい道具ではないでしょうか。
そんな歌の初演をしていただきました。
私も伴奏をいたしました。
多くのみなさん。まだ幼い子供から、とても多くの経験を重ねたであろう大人まで。
みなさん、とても大事に歌ってくださりました。
創作者の端くれとして、これはみんな感じることなのではないか?と思っていることがあります。作品を大事に扱ってくれると、とても心が救われるということです。
なにか物をつくって発信しようと言う人は、孤独な戦いをしています。
常に怯えています。
これに果たして価値があるのだろうか?
いいと思ってくれる人がいるだろうか?
つまらないものと思われたら…
本来、自身の人格への評価と作品への評価は切り離して考えるべきことなのでしょう。
でも、それがうまくできる人ばかりではありません。
常に不安を抱いています。(人生経験をつもとともにだんだん慣れるのかもしれませんが…そこまでの道はなかなか長いと思いますし、もしかしたら不可能かもしれないし、もっとこじらせる可能性もあるかと…)
そのため、作品を大事に扱って欲しい願望を持っています。
もちろん、扱って演奏してもらえるだけでも、ありがたいことだとはわかっています。
でも、かといって、ぞんざいに扱われたら苦しみます。
やっぱり、やめればよかったかもしれない、せめてもっと応援してくれる人が表れるまで待ったほうがよかったのかもしれない…
これが、自分のみで完結するものであればまだ納得しやすいのだと思います。
だって、上手くいかない原因は絶対的に自分にあるのですから。
ただ、音楽(や演劇もそうだと思います)は、そうではありません。
音楽の場合は例えば譜面を作るだけでは完成しません。楽譜が完成した、それは設計図ができただけで、形にすらなっていないと言えるのかもしれません。楽曲を完成させるのは演奏してくださるみなさんがあってこそです。(もちろん、DTMをはじめそうでないジャンルもあります)
なので、演奏者が大事に、そして(気に入らない面があろうとも、それなりに)敬意をもって扱ってくれたら、まず、作曲者本人がとても喜びます。
問題児かもしれないけれども、受け入れてくれたんだなと感じます。
そして、それを経てなされた演奏は素晴らしいものになります。
仮に、演奏に粗さがあったとしてもです。
心のこもった演奏であれば、その素晴らしさはなんらかの形で人に訴えかけます。伝わります。
世には駄作というものはあるもので、というよりも、駄作の屍の山の上にわずかな光るものがあるといったほうがいいのかもしれません。
でも、その多くの駄作の山でも、演奏しだいでいっとき輝けるものなのです。現代となっては見向きもされないようなものでも、初演当初は熱狂をもって受け入れられたものはたくさんあります。また、レパートリーに全く登らないような曲を現代において演奏したとしても、駄作は駄作なりに、美しいなと思う瞬間はあったりします。
たとえば、習作であっても、演奏家の先生は艶やかに演奏してくださったりします。
だって、楽曲を完成させる、仕上げをするのは演奏なんですから。
これは、逆に作者単独の力では完成しない音楽のいい面でもあるかもしれません。
音楽は作曲者と演奏者で作るものです。
作曲者にはどうしても同志が必要です。
叱咤激励はもちろんですが、一番は賛同して助けてくれる人、力をくれる人です。
同志にどれだけ心を救われていることでしょうか。
なにかつくって世に発信すると言う人は、どこかしら心のバランスを崩しているような気がしています。
私は少なくともそういう面を持っていると思います。自分がどんなにバランス感覚の優れた人格者になりたいも思っても、それだけは叶いません。
作家の友人がいつか言っていたことがあります。「小説を書くと言うのは呪いのようなものだ」どんなに辛くて辞めたいと思っても、書かざるを得ない…
自分がただ、そこにいるだけでは価値を見いだせないのです(というと少し言い過ぎかもしれませんが…)。
作るということはその捌け口を求めるようなものです。
そして、出したものに対する評価は、自分の存在価値そのものに大きく影響してしまいます。それは気の持ちようなのかもしれません。例えば、自分に関わりの薄い第三者はインターネット上の評価というのは、上手く対処することはより容易かもしれません。
しかし、リアルタイムに
なので、演奏で応えてくれると言うのは私に対する最大の赦しであり、救いなのです。
大事に扱ってくれると言うのは、演奏のできそのもののみではありません。そこへ至るまでの課程、心意気、かけてくださった言葉、いただいたお気持ちetc
そういうものをすべてひっくるめてなのです。
今回の初演においては、このすべてをいただきました。
私のこのちっぽけな自尊心は修復されました。
いろいろ悩んでいた私にとっては、今回の歌初演には本当に大きなことでした。
今回、この曲を取り上げて、作り上げてくださった先生には本当に感謝しています。
期待に応えよう。少し遠いけれども、でも出来るだけ時間をつくって、本当に些末な力だけれども、協力しよう。
そして、合唱のみなさんとは末長くお付き合いをさせていただきたいなと心を新たにいたしました。
とても、いい本番でした。