最初に
※本稿は長文です。要点のみを追いたい方は、各章冒頭の「要点」をご覧ください。
要点:本稿では、労働問題を「企業 vs 労働者」という対立構図ではなく、制度設計と運用の歪みという視点から捉え直し、現行制度が雇用そのものを不安定にしている可能性について考察します。
この記事は、あまり取りだたされているとは思えない労働問題に関する「視点」を提供するという目的をもって述べてみようというのが趣旨です。
現在の労働法制や雇用をめぐる議論には、制度の趣旨と実際の運用との間に大きな歪みが生じていると感じています。
特に、経営悪化時の人員整理をめぐる判断は、企業・労働者双方にとって極めて難しいものになっています。
本稿の問題意識は、労働組合や労働者そのものを批判することではありません。
私が問題だと感じているのは、労働問題が常に「労働者 vs 企業」という単純な対立構図に回収されてしまい、
制度設計や構造の問題が十分に議論されなくなる社会全体の議論のあり方です。
なお、本稿は個人的な見解に基づくもので、特定の企業や団体を指すものではありません。
『企業VS労働者』はミスリード? 制度疲労が生む現実
- 『企業VS労働者』はミスリード? 制度疲労が生む現実
制度が企業に課しているもの
労働法制は企業に色々な制限を課しています。もちろん必要なものも多いと思います。すべて否定するつもりはありませんので、その点は誤解なさらないようお願いいたします。
その中で一つ大きいのが、従業員に対するもので、以下2点は厳しく制限されています。
- 解雇
- 不利益変更(減給)
いずれも、できないわけではありませんが、その理由の合理性は厳しく判断されますし、こういう条件を満たせば絶対に安全というものは「ありません」。
収益が減ったからといってできるものではないのです。
裁判で個別のケース見られることになり、非常に不安定な状態が長く続きます。
ちなみに、最近は有期雇用の契約終了についても、どんどん厳しくなっています。
(契約期間が定められていても終了がそのまま通るとは限りません。これは社会通念と非常にずれていると個人的には思っています)
企業には仕組み上収入が減ったとしてもコストカットが厳しく制限されている
上述のことが一体何を指すのかというと、ある種のコストについて上げてしまった場合は下げることが非常に難しいということです。
これは、収入が減った場合であっても同様なのです。
ちなみに、コストとはネガティブなものではなく、必要に応じてかけるものであり、むしろ適切にかけるべきものであるととらえています。
企業の収支を家計で考えてみた
要点:企業の置かれている状況は、収入が減っても生活費を自由に下げられない家計に近く、結果として赤字状態が長期化しやすい構造になっています。
わかりやすくするために、家計で考えてみたいと思います。
企業に課せられているのは例えばこんなイメージです。
ある家庭で、月の手取り収入が20万円、生活費が15万円だったとします。 家賃、通信費、保険料、教育費など、簡単には変えられない固定費を含んだ金額です。
ところが、病気や業界不振など自分ではコントロールできない理由で、 収入が10万円に減ってしまいました。
このとき本来であれば、家計を見直し、生活費を下げる判断をするでしょう。 しかし仮に、生活費の削減について外部から厳しい制限が課され、 「それは本当に合理的か」「他に方法はなかったのか」と 事後的に第三者の判断を受け続けなければならない としたらどうでしょうか。
しかも、その判断がいつ下るかは分からず、 判断が出るまでの間は赤字でも支出を続けなければならない。
これは極端な例ですが、 企業が置かれている状況は、これにかなり近いと感じています。
なお、企業がコスト削減を検討する際に、人件費以外の支出が存在することは当然であり、それらを優先的に見直す努力がなされるべきである点に異論はありません。
ただし、人件費は多くの企業において最大かつ調整困難な固定費であり、制度上その柔軟性が著しく制限されている点こそが、本稿の問題意識です。
企業と従業員を一連托生にしてしまうことの危険性
要点:人員調整ができない制度は、結果として企業倒産を招き、守れたはずの雇用まで失わせる「全体損失」を生む可能性があります。
労働問題が語られる際、経営側 vs 労働者、企業 vs 労働組合といった単純な対立構図に落とし込まれがちである。
しかし実際には、制度の歪みが「企業が生き残れない」「雇用そのものが失われる」という形で、労働者側にも不利益をもたらしている。
たとえば、人員を適切に調整できれば15人の雇用が守られる状況でも、制度上それが不可能なために企業が倒産し、20人全員の雇用が失われるという事態は現実に起こり得る。
これは労使の対立ではなく、制度設計の問題であると考えています。
これは、ある企業とその従業員を一連托生の形にしてしまう。という点にあると思っています。
何らかのコストカットがなされれば、収支が安定して継続可能性が上がるのに、制限が課されているため調整ができず、結果として事業継続そのものが不可能になる「デッドロック状態」に陥ります。
さすがにこの状態であれば裁判になったら勝てるのでしょうが、判決が出るころまで、果たして企業は存続しているのでしょうか?
例えばですが、今20人雇っているとしましょう。
業績が悪化し15人であれば何とか黒字化できる。
この時、少なくとも以下のような2択が発生します。
1.5名の解雇が可能だった場合
15名の雇用は守られる。5名は雇用を失うが、必要になる労働のパイは5名分である。
2.解雇が不可能だった場合
企業が存続できないため20名全員が雇用を失う。必要になる労働のパイは20名。
極端ですが、2になった場合は1を採用できた場合の4倍の損失が生まれることになります。実際は経営状況が本当に厳しい場合の合理性は認められるのでしょうが、裁判になった場合の話をすると1.を採用しようとしてでも間に合わずに企業がつぶれるという可能性も往々にして、あると思います。
一点押さえておく必要があると思うのが、労働者という立場は雇用者がいなければ存在しえないということです。
逆は、条件次第で可能です。例えば、経営者同士で仕事を執り行う、外注する。などです。
雇用者を慎重に批判的に見る目は必要でしょうが、ただ、それしか回答がないという状態は危険であると感じます。
また、1.であろうが2.であろうが、善良な企業にとっても苦しい選択であることに変わりはありません。誰にとっても幸せを生まない選択であることは明らかでしょう。
補足:不利益変更禁止が生む“見えない負担”は、誰が引き受けているのか
病気や体調不良によるパフォーマンス低下は、本人の責任ではありません。
しかし同時に、その調整コストの大部分は、税ではなく企業が引き受けています。
これは実質的に、企業に福祉的役割を求めている状態とも言えますが、その点はあまり自覚的に議論されていないと思います。
例えば、病気等でパフォーマンスが落ちた従業員が一定期間をもってしてもパフォーマンスを取り戻せなかった場合に減給するのは禁じられています。
病気は本人のせいではないからです。
本人のせいではない確かにこれは正しいと思いますが、「では、本人のせいではない保証を負うべきはだれなのか?」という議論です。
企業には保険的な金銭を受け取れるしくみもありませんし、税金も投入されません。
なので、制度上は、「落ちたパフォーマンスは今ある企業の従業員がすべて引き受ける構造になっている」とも考えられるでしょう。
これは、公平な福祉と言えるのでしょうか。
一従業員からしたら納得できない事象を企業が自ら選んでいるとは限らないのです。
内部留保は悪なのか?家計において「老後の蓄え」や「失業時の備えとしての貯金」を禁じますか?
要点:人件費を柔軟に調整できない環境下では、内部留保は単なる利益の蓄積ではなく、雇用を維持するための安全弁として機能しています。
これがイメージの話でしたら申し訳ありません。
「内部留保*1は悪」だというような論調を聞いたことはないでしょうか?
私も昔はなんとなくそういうものなんだと思っていました。
ただ、企業が縛られているこのような状況を把握したうえで見ると全く意味が異なります。
私の理解では、内部留保は企業にとって安全弁のような役割を果たしていると考えています。
前述の家計の例を踏まえると、内部留保は「利益の溜め込み」ではなく、雇用を維持するための緩衝材として機能していることが分かります。
企業は収入が減ったからと言って、簡単に人件費を削減することができません。
それを踏まえたときに、もし企業が現金を保有していなかったらどうなると思いますか?
シンプルにすべての支払いが滞ります。給与も含まれます。
多くの経営者はそんなことになっては困るというのは、簡単に想像がつきます。
給与や賞与社会保険料、税金というのは口座の収支を見つめたときに、恐るべきインパクトです。
企業の使命として、収入を作る。それはもちろん経営者であればだれだってわかっていると思います。
でも、絶対に成功する事業なんてものはありません。
ということは、事業が傾いた時に保険をかけておかなければなりません。これが内部留保だと思っています。
雇用は本質的には流動性を持ちうる― 家族関係と同一視できない、する必要がないという視点について ―
ここで述べるのは、すべての労働者が自由に移動できるという理想論ではありません。
制度設計を考える際に、「雇用関係は本質的に流動性を持ちうる」という前提を無視してよいのか、という問題提起です。
要点:雇用関係は家族関係と異なり、条件が整えば変更可能である点を踏まえると、雇用の安全をすべて企業に委ねる設計には限界があります。
最初にお断りをさせていただきます。もちろん、年齢・地域・家庭環境などによって選択の自由が大きく制限されるケースがあることは否定できません。
それを踏まえた上での一般論として述べています。ただ、また同時に地域に企業がないとすれば、それはその地域の行政の戦略がうまくいっていないという点を抑えたいと思います。また、地政学的に不利な地域はどうしてもあることも添えたいと思います。
もう一点、念頭に読んでいただきたいのが、これは現実の困難さを軽視する意図ではなく、制度設計上の前提として何を置くべきかという問題提起です。
家計の場合、世帯の収入が減ってしまった場合は家族が全員同じ不利益を被ります。また、それは離婚などで家族という形を変えた場合に回避することはできるかもしれませんが、主に立場の弱い側(例えば子供)が自発的に回避することは困難であろうことは容易に想像ができるでしょう。
しかし、労働者は違います。
労働者は、家族関係と異なり、条件が整えば雇用関係を変更できる可能性を持っています。
労働者は企業が募集さえしており、自分のスキルセットや相性などが合致さえすれば回避が可能です。
確かに、法人VS個人という視点で言えば個人は弱いでしょうが、でも、現に多くの皆さんが企業に採用されて働いているという点に立てば、親子の縁を切るといったような難易度とは次元が違うことはわかりやすいと思います。
勿論、個別のケースに目を向ければいろいろ事情があるでしょうが、
労働者という立場は、本来、条件が整えば移動や選択が可能な存在であるはずだと考えています。
やや論点がずれますが、例えば独立するというのだって選択肢の一つです。
これは「すべての労働者が自由に移動できる」という主張ではなく、制度設計を考える際に、雇用関係と家族関係を同一視することの限界を指摘したものです。
また、これは一般によく言われることではありますが、雇用の流動性を前提とするなら、再教育・再配置・生活保障を制度として厚くする必要があるとも考えています。
現在のいびつな制度がもたらしうるものとその危険性について
要点:現行制度は、企業・労働者双方にとって合理的でない選択を誘発し、結果として雇用の不安定化を加速させる方向に働く可能性があります。
私は上記のような現状しか知りませんが、ただこの状態においても状況を悪化させる方向に転ぶ可能性があり、それが現在進行形ですらあると感じています。
非正規雇用の問題を引き起こしているのは企業?それはNo「制度」であると考える
要点:非正規雇用の拡大は、企業のモラルというより、雇用調整が困難な制度環境への合理的な適応の結果と考えられます。
非正規雇用の問題がよく取りだたされて、それをする企業が悪いという論調が多いように見受けられますが、上述の点を考えると企業としては合理的な選択として採っているだけに過ぎません。
なぜならば、仕事がなくなってしまったり、収入がなくなってしまったとしても、コストを下げられない可能性があるという点を考えた場合、調整しやすい存在を抱えておきたいと思うのは合理的です。
もし、この存在がない場合、業績悪化は企業の存続に直結し、深刻なダメージを与える可能性があります。
企業の存続は、従業員全体の立場にも直結します。
個別の従業員に目を向けたら別ですが、従業員全体に目を向けた場合、何が最適なのか?ということです。
外部から労働力を入れる必要があるのか?
もう一点、外部から労働力を入れる必要があるのか?という点にも触れたいと思います。
人手不足の企業もあれば人手が余っている企業もある
今は、人手不足が騒がれている時代ではありますが、果たしてそれは本当なのでしょうか?「現在の事業において成果が出にくくなっている人材」「配置と事業のミスマッチが生じている人材」が本当にいるのであれば、その労働力を本当に必要なところに移動させるのが筋ではないでしょうか?
このような人材については性別や年齢に限らない問題です。
事業が成長していたので必要だった人材が、状況が変わったことによって余るということは普通に起こりえます。
今は、労働硬直性*2が高く、解雇が規制されているために、本来不要な人材も抱えなければならない状況にある企業は実際にあります。
それに基づけば「もし、労働硬直性が取り払われたら労働力不足と労働力過剰が相殺しあって均衡する可能性があるのでは?」
この可能性は大いにあると考えられます。
労働力を増加させる制度が国内の労働のパイを奪う可能性について
これは、制度論として労働力を増加させる施策のリスクについて述べたものです。特定の属性についての排除や批判を目的としているわけではない点をあらかじめ述べさせていただきます。
また、現在外国人労働力の導入について議論されていますが、前述の通り、もし労働硬直性が解消された場合に労働力の需給バランスが解消された場合、本当に外部の労働力は必要なのか?という議論ができるはずです。
これは、現行の労働者を追い込む可能性があります。
外部から労働力を入れてしまった後、例えば制度が破綻して労働硬直性が解き放たれたとき、過剰な労働力は労働市場に解き放たれるでしょう。でも、その前に外部から労働力を入れてしまっていたら?解き放たれた労働者が本来だったら得ることができた席はすでに埋まっていることになります。
「企業が安い労働力を得ようとしているのが悪い」といったように報じられることがありますが、このような仕組みを作っているのは果たして企業と言えるのでしょうか?
重ねての補足になりますが、これは外国人労働者や外部人材を否定するものではありません。労働市場全体の設計次第では、共存や補完が可能である点も踏まえる必要があります。
労働の硬直化が労働者という席自体を減らす
要点:雇用の硬直性は、企業に正社員雇用を避けさせ、業務委託や外注へのシフトを促すことで、結果的に雇用の総量を減らします。
先ほどの外部の労働力はわかりやすい例ですが、それ以外に労働者という席自体を減らす方向へのシフトも採られています。規制が入るようですがフリーランスや業務委託、人間以外への外注などです。
なぜなら雇用は一旦してしまうと恒常的になってしまい、調整が難しいコストになってしまうからです。
労働問題の悪者は本当に企業なのか?
要点:労働問題を善悪の対立構図で捉えることは、本質である制度設計の問題から目を逸らし、問題解決を遠ざける可能性があります。
「労働者(組合)」VS「企業」というわかりやすい構図に逃げるを危険性
労働について何か問題が発生したとき、メディアは労働者(弱者)とそれをいじめる企業(悪)というわかりやすい構図を描くのを好んでいるように思います。
これは個々のメディアや記者の問題というより、複雑な制度問題が単純化されやすい情報環境そのものの課題だと感じています。
ただ、その構図が絶対に正しいかと問われるとそうとは思えません。
多くの場合、企業は自身の存続を図るため、制度の範囲内で合理的な選択を重ねているに過ぎないと感じています。
ただ、この描き方は本当の原因から目を背ける効果しかなく、労働者の立場をどんどん追い込む方へもって行っている可能性すらあると感じています。
この番組で私は夏野さんの意見に非常に納得したのですが、一点だけこの構図はよくないと思っている点がありまして、それは企業VS労働組合の問題ではないということです。
番組中に、何度も仕組みの問題と言及していますが、仕組みを作ったのはだれか?ということです。
労働組合は確かに、意見をすることはできるでしょうが、仕組みを作ること自体はできません。
私は常々残念だと思っているのですが、国には素晴らしいブレーンがたくさんいるはずで、この状況は絶対にわかっているはずだと思っていますが、それを変える方向に全く動いているように感じられないということです。
本当の主役は「立法・行政」 制度を作った責任を果たすべきでは?
要点:雇用のセーフティネットを企業に過度に担わせている現行制度は、本来行政が果たすべき役割との分担が不明確になっています。
セーフティネットとして国民の生活を担保するのは本来は行政である
企業の主たる目的というのは収益を得ること、もう少し視点をマクロにしたら経済を回すことになると思います。雇用というのは本来は目的ではなく、目的を達成するための手段にすぎません。
なので、労働者全体としてとらえた場合に雇用の維持の責任を個々の企業に負わせるのは責任の矛先をごまかしているのではと思っています。
生活保護などに代表されるセーフティーネットを担うのは行政機関であるべきです。
企業だっていいところも悪いところもあるでしょうし、そういうところと戦える仕組みを整えるのはもちろん必要だと思います。
確かに、過去の企業の行いを制限するためにこのようになっているのかもしれませんが、でもその正しさの検証は常にしていかなければならないと感じています。
現代では、多くの人が転職やキャリアチェンジを行っています。今はそういう時代です。
企業が正社員を雇うコストを小さくできるのであれば労働者という席が小さくなるという懸念もなくなるのではないでしょうか?
これは当然のことですが、いい人材には残ってほしいと思うのは、どんな企業でも一緒であろうと思います。
紛争が増えていると耳にしたが、それは制度のせいでは?
要点:解雇や不利益変更の判断基準が曖昧であるため、制度そのものが紛争を生みやすい構造になっています。
正確でなかったとしたら申し訳ありません。最近、紛争が増えているという話を耳にしました。これはどういう意味かというと、制度が曖昧でグレーゾーンが多いために紛争にならざるを得ないということであると思っています。
そもそも、白黒はっきりつけられるのであれば第三者の判断はいらないはずです。明確なのですから。
でも、この前の節を見ていただければ、解雇や不利益変更ができないのではなく、難しい(=できなくはないが、正当性は司法が絡む可能性が非常に高い)ということがわかってもらえると思います。
これは、制度不備と言えるのではないでしょうか?
紛争を未然に防ぎ悪徳企業をなくす仕組みが必要では?
要点:事後的に裁く制度から、事前に是正・排除する制度へと転換することで、柔軟性と公正性を両立できる可能性があります。
そもそも、法律が整備されたのは、ブラック企業を取り締まるべきものであると考えています。
現行制度では、問題が顕在化してから個別の労使紛争として処理されるケースが多く、結果として行政窓口や労働審判が「微妙な判断を迫られる案件」で飽和している。
これは個々の労使の善悪の問題というより、制度が事後対応型に偏りすぎていること自体が不備であると考えています。
本来、労働法制はブラック企業を抑止・排除するためのものであり、
-
定期的・実効性のある調査
-
是正勧告に従わない企業への迅速な制裁
-
悪質経営者が同様の事業を継続しにくくする仕組み
といった事前・構造的な介入を強化すべきである。
その代わり、こうした監視と是正を前提とするならば、
経営判断としての人員整理や事業再編については、より柔軟な運用を認める余地があるのではないかと考えています。
今は、問題の可能性を訴えられて初めて行政が動く、後手対応をしているように思います。
このような構造を放置すると「現場の疲弊」「判断コストの社会全体への分散化」を呼んでしまうと思います。必要なリソースが多くなり、もっと他のところ、根本的な解消へ使えるものが減ってしまう点を懸念しております。
制度設計者と運用者の分離
また、行政内における責任の所在と分担にも、構造的ないびつさがあると感じます。
制度を作る側は今の形に準じた軽微な修正をしているようですが、それは個別の案件を処理する側にしわ寄せがきているように感じます。
行政も一段視点をあげると悪いのですが、部署ごとに一律悪いわけではなく、責任の持たせ方に問題があると思っています。
責任の取り方が、しりぬぐいの部署だけというのは機能不全に陥っているように見えます。
また、問題を孕むすべてのケースを含めるために本来経営の裁量で認められている範囲をも含む事例を一緒くたにして内容に盛り込んでいる。
そう感じます。
訴訟になった時に負担があるのは、労働者と企業です。
では、この構造を生んでいる制度設計の責任は、どこにあるのでしょうか。
非常に重要な視点であると思います。
事情はあるのであろうが、根本的なメス入れが必要な段階なのでは?
もちろん、政治的制約や合意形成の難しさがあることも理解しています。その上でなお、構造的な再設計の議論が十分に行われていないように感じています。
制度を作るのは立法である
ここまで行政が悪いように書いてしまいましたが、行政もまた法律に基づいて動いていることに変わりはありません。
制度を作るのは立法の役目です。
今、大きく動くべき段階にきているのでは?と感じています。
離職は怖いがそれは雇用硬直化のせいかもしれない?
こんなことを書いていますが、私も過去に何度か転職をしたこともありますし、定職についていないときもありました。完全なプーの時期もありましたし、アルバイトでしのいでいた時期もありました。
やっぱり、仕事をやめるというのは非常に勇気がいるし、怖いものだったのは記憶にあります。
ただ、これって、離職も就職も簡単で会社を変えるのが当然の状況。周りがどんどんやっている状況だったとしたら、全然心理的な障壁はないのではないかとも思っています。
だって、それが当然なのですから。
では、どうすべきか?
要点:制度の監視と是正を強化する代わりに、経営判断の自由度を高め、雇用の総量と安定性を両立させる仕組みが求められます。
提案1:問題が起きてから裁くのではなく、事前に是正する仕組みへ
本来、労働法制が目指すべきは、個別の労使紛争を後追いで裁くことではなく、 ブラック企業を構造的に排除し、問題が起きにくい環境を作ることではないでしょうか。
定期的な調査、実効性のある是正勧告、悪質事業者への明確なペナルティを前提とするならば、 経営判断としての人員整理や事業再編については、より迅速で予見可能なルールを設ける余地があります。
提案2:雇用の安全網は企業ではなく社会全体で支える
雇用を守ることの重要性は否定されるべきではありません。 しかし、その責任を個々の企業に過度に集中させる制度は、 結果として雇用そのものを減らす方向に働いている可能性があります。
失業時の生活保障や再就職支援といったセーフティネットは、 本来、行政が中心となって担うべき役割です。
企業が過度な硬直性を恐れずに雇用できる環境を整えることこそが、 結果的に労働者の選択肢を増やし、雇用の総量を守ることにつながるのではないでしょうか。
制度疲労の放置は日本を危険な状態にする可能性があるかもしれない⁉
要点:制度疲労を放置すれば、雇用・経済の両面で回復が難しい損失を招く可能性があり、早期の再設計が不可欠です。
なんでこの記事を書こうと思ったのか?と言いますと、この見出しにある通り、日本の経済に大きなダメージを与えうるリスクを孕んだ状況なのではないか?という危機感を持ったからなのです。
しかも、それが外部の圧力などによるものではなく、内部の問題であるということがむしろ私には深刻に感じられます。
内部の問題はしっかり取り組んで向き合えば回避できるはずのものです。
私は、私を含む日本の民衆は、適切な情報を与えられれば正しい方向に世論を勧められると思っています。
また、しかるべきところがしかるべき責任を取る姿勢を示し実行さえすれば、この問題は立て直せると思っています。
国は制度について、一旦現状を取っ払ってフラットに見て、適切な方向に大胆にかじ取りをしていくべきではないでしょうか?
私が感じたこの問題がただの杞憂で済むことを願っています。
なお、繰り返しになりますが、これは一つの見方に過ぎず、すべての人に同意を求めるものではありません。
ただ、別の角度から考える材料になればと思っています。
補足:なぜ、学校教育で触れられなかったのか?
要点:企業活動や雇用の仕組みを理解することは、市民一人ひとりが自立した判断を行うための基礎的リテラシーです。
このような企業の収支の仕組みやそれに対するいびつな制限について、家計に置き換えるなどしたらわかることを、なぜ学校教育で触れられなかったのか?という点が非常に残念です。
このような知識は、一人ひとりが自分の言動に責任を持つ基礎にもなると思います。
労働者は経営のことを考える必要はないのかもしれませんが、でも考えられた方ができることは増えると思います。また、自分の人生を自立したものにする助けにもなるのではと感じています。