**吹奏楽に深く関わっている指導者・演奏者の皆さまへ**
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現代邦人吹奏楽作品を用いた音楽の核心を見つけに行く旅 ~「こんな曲」といわれた作品が持つ深淵をあなたは覗くことができますか?~
吹奏楽はもっと「音楽」を語れるはずだ。
感情やストーリーといった、音楽そのものではない“何か”に依存した作品は、現代日本の吹奏楽界にはたくさんあります。
それらは、ドラマチックでわかりやすく、聴衆も演奏者も強いカタルシスを得ることができる。
とても素晴らしい作品たちです。
しかし、これらは多くの場合、「他者の物語」に感情を投影することで生まれる感動だと私は感じています。
つまり、客観的な物語の追体験。いわば“映画的”な感動です。
一方、音楽にはもう一つの側面がある。
「自己との対話」を強く促す音楽。
それは、文芸作品を読んだときのように、自分の心の中に潜り込んでくるものです。
ときに心地よさと不快さの境界を揺さぶるような、
得体の知れない感覚。
でも、一度感じた不快感や違和感が最終的には快感に変わっていく。
そんな体験をもたらす音楽が、確かに存在します。
このような音楽は、オーケストラ作品や室内楽、ピアノ曲、古典から近代のクラシック作品の中には数多くあります。
「音楽そのものの論理」——ソナタ形式、主題労作、対位法。
感情を超えた構造の美、論理が生むエモーション。
しかし、不思議なことに、現代の吹奏楽作品においては、このタイプの音楽に出会う機会は決して多くはないと感じています。
これは、私の吹奏楽経験の未熟さが故のものかもしれませんが、ただ、私と同じような道をたどる人も決して少なくない。そう思っています。
けれど、だからといって、吹奏楽がそういう音楽を奏でられないかと言えば、それは断じて「NO」です。
吹奏楽編成でも、音楽そのものが語る音楽を紡ぐことはできる。
実際にここにその試みの一つがあります。
タイトルは「交響的小品」。
巨大編成ではなく、個々の音色を生かしたウィンドアンサンブルを念頭に作られた作品です。
私がこの楽曲を作った動機と同じ気持ちを持っている人や、興味がそそられた人、少し覗いてみたいなと感じた人はぜひ読み進めていただければと思います。
大嫌いだった交響曲 シューベルトの「ザ・グレート」
大好きだった幼児向けクラッシック作品
私は子供のころからクラシック作品に触れる機会が比較的多い環境で育ちました。
教育の側面をも持つ子供向けのわかりやすいクラシック作品は私のルーツの一つともいえるものでした。
3, 4分の楽曲。
主にテーマに沿って分類された楽曲群(おもちゃ、動物、自然、都会 etc...)で子どもの短い集中力でも楽しめる作品がほとんどでした。
ただ、その中でものちに語る「ザ・グレート」の伏線ともいえる苦手な楽曲がなかったかといわれれば、それはNOです。
例えば、「おもちゃの交響曲」はその曲集の中で比較的長く、10分を超えるものでしたが、その緩徐楽章である(メヌエットと書いてありました)第2楽章は退屈だなと思っていたことを覚えています。
大嫌いな楽曲との遭遇
そんな環境で育った私が、確か小学生か中学生だった頃に、叔母の持っていたレコードをいくつかもらったことがありました。
刺激を受けたレコードでもあり、その中にあったドヴォルザークの交響曲第8番の第三楽章は子供心に「なんていい曲なんだ」と思った覚えがあります。
ピアノ曲集のレコードも当時自分が習って弾いていたことがあり、シンパシーを感じて比較的よく聞いていました。
そんな中、例外となる因縁を持つ楽曲に1つ出くわしました。
それが、シューベルト作曲の交響曲第9(8)番「ザ・グレート」でした。
はっきり言って、大嫌いでした。
無骨で単純なリズムの繰り返し
ハ長調のぼわんとしたどんくさい響き
大げさでうるさく尊大な感じ
洗練されていないダサさ
「何がいいのかさっぱりわからない。」
そんなことをはっきり思ってしまった初めての楽曲でした。
大学3年で訪れた転機
「ザ・グレート」に対するそれは、大学生になってしばらくたつまでの長い期間継続されてしまうという大きなしがらみとなってしまいました。
しかし、大学3年生の時に転機が訪れました。
大学生当時、学生オーケストラに所属していた私は、3年になり執行学年(希望の楽曲を希望のパートで演奏できるチャンスが巡ってくる学年)に差し掛かったところでした。
何の因縁でしょうか…
その時の春の定期演奏会のメインプログラムが「ザ・グレート」でした。
その時点でもまだ嫌いだった私は友人に席を簡単に譲ってしまいました。
友人に「大嫌いだから」みたいなことを言った覚えがあり、さらに、「大嫌いな曲なんて、そんなのあるの?」となかばあきれ気味に言われた覚えもあります。
でも、この決断が後ほどの大後悔を引き起こすことになろうとは、夢にも思いませんでした。
大後悔から刺激された音楽への探求心
当然、メインプログラムの練習時間は長く、降り番だった私は「ザ・グレート」の練習を聞く機会が必然的に長くなりました。
最初はそれこそ「こんな曲」と思いながらの時間…
しかししかし、回を重ねるごとに、だんだん妙な気分になってきたのに気が付きました。
楽曲を欲するような
身体が要求するような
そんな不思議な気持ち。
「この曲、なんかすごいかもしれない...?」
ダサいと思っていた単調なリズムが有機的に結びつき変容していく様子
構造自体が持つ美しさ
構造を巧みに利用した裏切りによる「はっ」とさせられる感じ
巧みな転調がもたらす高揚感
そういったものが徐々に浸透していき、大嫌いだった感情はすっかり消えてしまっていました。
当時の音楽仲間に恵まれたことでプラスされたこともあったろうと思います。
※ちょうど新しい解釈に基づく楽譜が出たタイミングか何かで、冒頭の拍子が4/4から2/2に変えられている話や出版社解釈のアーティキュレーションの話など、音楽を解釈するということへの興味をそそる体験を、雨のように吸収していたタイミングでもありました。
結果として、あれほど毛嫌いしていた楽曲が、大好きになり、メインプログラムを演奏できなかったことを後悔するほどになってしまったのです。
これはのちの私の音楽観に大きな影響を与える経験でした。
当時から作曲に興味があり、ちまちまと創作を続けていた私はこういう楽曲を目指すように自然となっていきました。
この貴重な経験で得られた共感を分かち合える楽曲を生み出したい。
そんな気持ちから生まれたのが「交響的小品」でした。
後から振り返っても、全力で作ったこの楽曲は私の創作の大きな転換点に当たるものになっていると思います。
古臭さとモダンさを兼ね備えた、奇妙な作品「交響的小品」
ここで、拙作「交響的小品」のスペックを簡単に説明したいと思います。
変ホ長調を主調としたソナタ形式の楽曲で、演奏時間は8-10分程度。小規模~中規模の演奏会用序曲といった体の楽曲ですが、中身は場面のハイライトを描いたさわやかな音楽とはかけ離れたとんでもない代物です。
形式や調性の選択については厳格で規則を強く意識したものであり、古典的で悪く言えば古臭い感じがするかもしれません。
しかし、規則の中での「遊び」の部分については、「私、田丸和弥」としての人が出ていると評されたこともあります。
特に和声について、時に浮遊感のあるそれはクラシックのそれにのっとりながらも邦人的であり、モダンでもあると評されたこともあります。
厳格なソナタ形式に基づく、堅牢で頑固な思想と構成を持った作品で、初めて聴いたときはとっつきづらさを感じる人もいるでしょう。
最初の感想として…
「こんな(どこがいいか全くわからない)曲を演奏するの?」
そう言った方もいるとかいないとか…?
しかし、ここまで読んでくださっている方には自信をもって、その感覚を裏切る自信があります。
この曲の体験は「スルメを噛むような」なものです。
噛めば噛むほど味がしてきます。
また、噛めば噛むほどに新しい発見があり、その発見がまた新たな謎を生む。。。
底が見えそうで見えない…そんな要素をもった楽曲です。
ここで「とっつきづらい」「こんな曲」といわれる曲を、初めて聴くことになるであろうお客さんに届けるのはリスキーじゃないか…
そう思われる方もいるかと思います。
その不安は当然のものと思います。
しかし、それもまた杞憂に終わります。
というのも、設計に対して適切にアプローチされた演奏というのは、美しく深みがあるのです。
機能美を備え、適切に設計された建築物を鑑賞するのに似た感覚を聴衆に与えることができます。
また、何かの情景や感情を明確に描かずとも「人が感動する」というのはあることなのです。
ここまで読まれてすでにお察しの方が多いことと思われますが、この楽曲は何かの情景や感情を描いたものではありません。
何かわかりやすい第三者に感情をのせて楽しむような作品では、残念ながらありません。
物語や登場人物を想像して演奏したり聞いたりすることはできないのです。
しかし、その代わりに何かを感じたり、考えたりする「余白」をもつ楽曲ではあります。
第三者に感情を投影することはできない代わりに、自己を投影して演奏したり、鑑賞することはできる楽曲なのです。
このためには、楽曲への理解とそれに基づく演奏が必須となります。
適切な解釈のもとになされた演奏は、演奏者の思想や考えが投影され、統率された美を音楽にもたらします。
その説得力は必ず聴衆に伝わることでしょう。
その演奏を受けて、聴衆もまた、自己を投影して鑑賞することができる。
あたかも半生を振り返るような経験をすることができる楽曲…にもなりうる。そう考えています。
こういった聴体験をさせる側に回ってみるのは、とても貴重でわくわくするスリリングなものになることでしょう。
演奏者としての自分に置き換えて想像したとき、この体験は極上のものであると断言できます。
総じて、「交響的小品」は皆さんのプログラムの中で異色を放つ作品になることは間違いなしです。
吹奏楽だからこそ挑戦できる。
音楽の「骨格」そのものを掘り下げ、演奏を通してそれを体験できる。
——そんな稀有な作品「交響的小品」
気になった方は、ぜひ、楽譜をお手に取ってみてください。
挑戦者求む!
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「音源は機械演奏ですが、構造や響きのイメージは十分に伝わると思います。」
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「もしリアル演奏の音源ができたら、ぜひここに追記したいです。」
課題も多かったのですが、初演の演奏もあります。
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この曲が“スルメ”な理由——構造オタク向け深掘り記事はこちら
この曲の真の面白さは、“構造そのものがドラマを生む”という点にあります。
実は、そんな主題労作の面白さについて、以前マニアックな記事を書いていました。無名ゆえに当時は誰の目にも留まりませんでしたが(笑)、今こそ再掲します。