POPSにも果敢にチャレンジ!クラシック作編曲家 かずまるの音楽日記

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愛しい子よ、さようなら、どうぞお幸せに

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ちょっと、今日はこんなタイトルであれなんですが…

しんみり話が苦手な方はそっと閉じてください。

 

 

 

 

2021/7/10 の午後 愛猫の「チャーミー」が亡くなりました。

 

母からの着信があって、夕方にかけ直してみると。

「あまりいい話じゃないんだけど…」

ということで、亡くなったことを聞かされました。

 

あまり、詳しくは聴けていなかったんですが、どうやら直前に病院にも連れて行ったようですが、人間でいえばもう100歳超えてるし、もう歳だろうという話をされたとのことでした。

 

それから間もなく、亡くなっているのを見つけたとのことでした。

 

お気に入りのバスタオルでくるんで、エサをいっぱい蒔いて(食べるのが大好きな子で、今年帰ったときはまだもりもり食べていました…さすがに、亡くなる直前はあまり食べていなかったそうです)、敷地内に埋めてきたとのことでした。

墓標代わりに大きな石を立てたとも言っていました。

 

家の母なんて、毛が飛ぶからと言って、そんなに、めい一杯大好きだったわけでもないだろうに(それでも愛していたとは思いますが)、電話口では泣いていました。

 

 

おそらく、20歳と4~6か月生きたと思います。

 

残念なことに誕生日は知りません。

 

私が高校生だったころに、父が知り合いからもらってきた子でした。

半野良の雑種。

だったんですが、ちょっと毛の長いシャムネコといっても過言ではないくらい、ポイントがはっきり出ていました。

 

顔、耳、四肢の先、尻尾(うっすら縞模様がおそらく父猫の特徴)、全部黒くて、それ以外はシロ。

目は青。キトゥンブルーではなく本物の青。

 

母猫がヒマラヤンの雑種。父は不明だそうです。

兄弟の雄は黒のペルシャ様の猫。

メスはみんな毛の長いシャムみたいな子だったそうです。

 

美人さんでしたよ。

 

連れて帰ってきた日は一晩中鳴いてました。

どんな声だったかは忘れてしまったけど、泣き続けていたことは覚えてます。

「母猫と引き離さないほうがよかったのかな…」と思っていたことを覚えています。

 

翌日にはけろっとしていたんですが(苦笑)

 

最初は、家の中の段差も登れないくらい小さかったのに、いつの間にか屋根の上を闊歩するようになっていました。

 

ねずみ取り、スズメ取りが上手な子でした…(若い時は野性味にあふれていました)

 

自分が大学進学するときだったので、1年も一緒にいなかったんですが、それが残念で仕方がなかったです。

 

帰省の一番の楽しみはチャーミーに会うことでした。

 

それから10年近くたって、一旦実家に帰ってからは数年間一緒に暮らしてました。

 

その間、危ないことも何回かありました。

 

具合が悪くなって餌を食べなくなってしまったこともありました。

 

一旦は本当に死にそうになってしまったこともありました。

おそらく誤診によるインスリンの過剰投与による低血糖で死にかけました…。

猫はストレスを感じると血糖値が急上昇することがあるんだそうです、でも獣医さんによっては猫にあまり詳しくなかったりもするらしく、血糖値が高いから糖尿病だということで、注射と経口投与を受けました。

その晩は大変なことになったのは今でも覚えてます。

田舎の夜間は、獣医さんはどこも開いてないので、ネット情報できっと「低血糖に違いない」という情報を見つけて、砂糖水を飲ませました。

(一時的な高血糖は怖くないとのことで、優先しました)

翌朝、たまたま行きつけの獣医さんの都合が悪く、別の病院へ連れて行ったところ、重度の低血糖で、死んでいた可能性もあったとのことでした…

獣医さんを選ぶのは本当に大事だと思いました。

ただ、低血糖の治療を受けた日に一旦帰宅したのですが、エサはまだ食べなかったものの、勝手に外に出ちゃうくらいのお転婆というか、頑固者というかでして…

結局そのあとは、数日後には餌を食べ始め、何事もなかったかのように復活してしまって、一安心でした。

 

と、そんな死線をも乗り越えてきた子で、生命力のとても強い子でした。

 

自分のほうがお兄ちゃんって思っていたけれども、猫が年を取るのは早く、あっという間に追い越していってしまいました。

晩年は、「私のほうが大人よ」って感じの貫禄を携えていたと思います。

 

 

基本的には父が面倒を見ていましたが、耳掃除と爪切りは唯一自分だけがやっていました。

耳掃除は、昔は帰省する度に、実家にいたときは、2週に一ぺんくらい。

 

最後にもう一回やってあげたかったな…なんて思っても仕方ないのですが、思わずにはいられないものですね。

 

 

本当はちゃんと看取ってあげたかったな。

 

最期の時は、そばにいてあげたかった。

 

全盛期は4kgあった体重が、ここ数年ずっと2kg台になっていました。

 

年も年だし、いつかこういう日が来るだろうとも思っていたし、看取るということ自体、難しかったのかもしれませんが、でもやってあげたかった。

 

余り、深く思い詰めてもよくないよとも言われたし、確かに、成仏できなくなってしまうのかなとも思いました。

こうやって書かないほうがいいのかなとも思ったんですが、でも、生きてきた証を残してあげたいなとも思って、書くことにしました。

 

自分の番がいつ来るかは、全然わかりません。

かなりしぶとく生きたら数十年は生きていると思うんですが、でも、そのあとに再会できたらいいな。と願わずにはいられません。

 

そんなに信心深いほうではないのですが、でもこういう時だけは、そういう風に信じたくなっちゃいますね。

現金でしょうか。

 

最後に、画像をはっつけてみます。

 

写真を見るとどうしても泣いちゃうんだけど、でもかわいかった姿を見てほしくて…

残してあげたくて…

貼ります。

 

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